両親と幼少期
まずは誕生から幼稚園入学まで。
春日の両親はかなり年の差婚で、父親と母親の年齢差は十才以上ある。
両親の出会いはスナック。
当時家庭が貧しかった母親は十九才からスナックでアルバイトをしており、土建業だった父親はその店の客だった。
出会った時はふたりは男女の仲ではなく、単なる常連客とホステスの関係。
ところが母親の実家が借金苦で夜逃げすることになり、母親だけを置いて県外に逃げてしまったのだ。
家を失い途方に暮れた母親は、常連客であった父親に助けを求め、そこから共同生活が始まった。
特に交際をしていたわけではなく、父親には他に恋人もいたが、ある日酔った弾みで男女の仲になり、長女である春日を妊娠したという。
私を身篭った時、母親はまだ二十歳だった。
子供を堕すことも考えたが、ふたりで話し合った結果、産むと決めたらしい。
恋愛ではなく、当時の母親にとって身を寄せられる場所、つまり頼って利用出来る相手がほかにいなかったという理由だったわけだから、好きでもない男の子を産むことにしたのだ。
父親は妊娠中の母親を手助けすることもなく、仕事の後は飲み歩き、母親は妊娠中にうつ病を発症した。自殺未遂をしたこともあるそうだ。
これでは子供が産まれてからも育てるのは困難であると判断され、父親の実家に移り住み、祖父母と父親と母親が同居することになったのである。
そして産まれた赤ん坊が私。
その時点では、父親と母親はまだ籍を入れなかった。
母親は産後のうつも酷く、私への愛情も持つことが出来なかったため、私は主に祖父母に育てられることになった。
祖父は大工の棟梁で、昭和のハンサムだった。
気立てが良く温厚な性格で、地域の人々や親戚にも慕われる存在。
私は祖父にとても懐き、毎晩膝の上で絵本を読んでもらうことが好きだった。
公園に連れて行ってくれて、ジャングルジムの登り方を教えてくれた。
祖母は下町の肝っ玉母さんのような明るい性格で、おっちょこちょいな天然さも持ち合わせていた。
父親はひとりっ子だったので、祖母は女の子を育てた経験がなく、私の髪を結うのにも時間がかかった。
父親、母親との交流はほとんど無かったが、祖父母からはたくさんの愛情をもらったと思う。
私が幼稚園に入る年齢になった時、父親と母親は便宜上のため入籍し夫婦となった。
時を同じくし、祖父に肺がんが見つかった。
発見が遅かったのだろう、半年後には亡くなってしまった。
幼稚園の入学式を誰よりも楽しみにしてくれた祖父に、晴れ姿を見せることは叶わなかった。